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Good Day to Die

this is my story

"私は自分のことがものすごく好き。"

 

I love this*)) from my friend.

↓↓

私は、自分のことがものすごく好き。

私の人生自体は、世界中のものごとと比べたら、そりゃあ端っこ・隅っこにあるちっぽけなものにすぎないかもしれないけれど、少なくとも、私の人生の中心に存在する。

「普遍的な美」をもっているわけではないが、私が持つ個性が気に入ってるうえ、それが自分の魅力であると思う。

背は大して大きくないが、小さいからといって外見に合わせて可愛くなろうとは思わない。

自分に自信があるからこそ、どんな人であれ初めて会った人とも話を弾ませることができる。

武器を持って歯向かってくる相手でなければ、誰であろうと怖くない。

SNS上の知り合いが何百人ほどではないが、自分とつながりを持ち、絆を深められるような人に対して、真摯に、大切に向き合う。

だからこそ、お別れの時間がやって来た際、執着せず、そっと放して、相手の幸せを願うことができる。

何かが思うようにいかなかった時、それが私の人生の終わりでないと知っているが故、親切でない店員さんに、信号を守らない車に、バス停前の列を並ばず抜いてくる人に、図書館で騒ぐ新入生に、無礼な態度の友人に、怒りを感じずにすむ。

こうしたときは、幸せな瞬間、最高の状況ではないが、笑い飛ばせる余裕を学びつつある。

私の成績・GPAはくそみたいで、専攻・メジャーもたしかではないけれど、少なくともそれらが自分の人生において一番大切なものではないことをよく知っている。

私が何をしたいのか、何を得意とするのか、よく理解しているわけでもない。

けれど、現在(いま)の自分が一瞬一瞬最善を尽くして、行動をおこしていれば、いつか未来にふと立ち止まって振り返るこの道が、私の歩んできた道(人生)になっていることを、私は確信する。

数多くの試練を経験し、これからもいくつもの悩みを抱えることであることも知っている。

誰かが道標(みちしるべ)をしていない道、ヒントのない道は、なおさらそうであろう。

しかし、失敗に見えるものとは、実際失敗ではないことを思い出してみよう。また成功に見えるものも、本当の成功ではないことを覚えておこう。

ただ、私が知らざるを得ない、この世界のすべての因果関係が互いに作用した結果であり、その何か別の結果の原因であることなのだろう。

私にできる最善のことは、ただいま私を訪れている現在を大切に想うことであること。こうして学んでいっている。そんな私が、私の人生が、とても愛おしい。

 

誕生日の意義

生きてゆく

毎年誕生日が来るたび憂鬱になる。

祝われないことが怖いのだ。

社交的な友達の多い子はたくさんのサプライズやメッセージやプレゼント、SNSでのコメントなど。

思うに誕生日という日は、普段どれだけ周りにコミットしてきたか(他人に感謝されたり大切に思われるようなことをしてきたか)というのが一番はっきりと表れる日なのだと思う。

だから祝ってもらえて嬉しい、プレゼントわーい、ではなくて、私にとっては気の引き締まる思いでもあるし、緊張する日でもある。

 

じゃあ誕生日ってなんのためにある日なのか?なぜ誕生日を祝うのか?

  1. 誕生日ということをきっかけにしてその人の人生や思いや未来に思いを馳せることでその人が存在していていいんだよということを表す日。
  2. その人自身が、親に、友達に、周りの環境に感謝する機会である日。

なのかなーって思うのね。他にもあるよーっていうのがあったら教えて欲しいです。

 

まず1について。

私が言いたいのは多分こういうことだろうなっていう一つのストーリーを見つけたので紹介したいと思います。

ベンジャミン・ザンダーというボストンフィルハーモニック管弦楽団の常任指揮者の講演を聴く機会に恵まれました。
場所はカナダのケベックコーチングの国際大会の基調講演者がザンダーでした。 ザンダーはイギリス生まれのユダヤ人で、指揮をするかたわら音楽学校も経営していて、リーダーシップに関する講演を世界各所で行っています。各国の政財界の首脳が集う
世界ダボス会議のような場に招かれて講演したこともあるということでした。
講演のまだ序盤、彼は2000人のオーディエンスに対して、「今日、誕生日の人はいませんか?」と問いかけました。
1人の女性が手を挙げると、ザンダーは彼女をステージに上がるよう手招きしました。
「皆さん、今日は彼女の誕生日です。ハッピーバースデーを歌おうではありませんか。幸い私は指揮者ですから、指揮をしましょう。立ち上がってください。さあ!」
アメリカ人がほとんどの会場ですから、みんな照れもなく歌いだしました。
ハッピーバースデーが会場に響き渡りました。すると、突然ザンダーは手を大きく振って、歌を止めました。
「皆さん、歌ってくれてありがとう。でも今のはただのお付き合いに過ぎませんね。とても心が込もっていたとは思えない。心を込めてもう一度!」オーディエンスはお腹の底から大きな声を出して歌い上げました。まさに大合唱です。しかし、またもザンダーは途中でストップをかけました。
「すごくいい! とてもエネルギーのある大きな声だ。でも大きな声で歌えばいいというものでもない。みなさん、忘れていませんか? 今日は正真正銘 彼女のバースデーです。彼女がこの世に生を受けたことをお祝いする日です」
「ちょっと想像してみませんか?彼女が生まれた日、彼女のご両親はどんな顔で生まれたばかりの彼女の顔を覗き込んだのかを。
子供のときはどんな遊びが好きで、どんなお友達がいて、どんな夢を抱いていたのかを。学生時代はどんな恋をし、どんなことに悩み、どんなことに一生懸命になっていたのかを。そして最近では、どんな仕事をしていて、どんな家族に囲まれていて、どんな将来を展望しているのかを。その彼女の、正真正銘の誕生日です。心を込めて、彼女という人間がここにいることの奇跡を歌を通してお祝いしましょう。さあ!」 オーディエンスの歌声は、ゆったりとした、気持ちの込められた音色に変わりました。会場の真ん中で、私の体は感動で少し震えました。
驚いたのは、ステージでその歌を聞いていた彼女の頬に涙がつたったことです。この経験は自分にとって衝撃的でした。その人の誕生日をお祝いするということは、その人が確かにそこに「存在している」ということを改めて思い出す行為なのだということが、
はっきり認識できました。そして、誕生日はその人の背後にある物語に思いを馳せる時間なのだと、仕事を通して出会えた喜びに感謝する時間なのだと気づきました。

出会いの確率は途方ないものこの世の中で、ある1人の人と、ある1人の人が出会う確率とは
どのくらいなのでしょう。「出会い」というものをどう捉えるかにもよるため、
本などではいろいろな数字が出ているようですが、純粋な数学的計算では、200億分の1にさらに
100億分の1を掛けるくらいの、途方もない率になるといいます。そのくらい、出会うということは
奇跡的なことなのでしょう。 1人の人との巡り逢いは、天文学的な率のもとで起きているといえるかもしれません。
引用;

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1339936053

 

コンプレックスの話*でもしたんだけど、生きてるって当たり前じゃなくて。

その人がこの世に存在してることも(だってものすごい数の男女がいてものすごい組み合わせがあるのにその中で二人が出会うのもそれが結婚までいくのもすごいこと。しかも同じ親でもものすごい遺伝子の組み合わせと可能性があるんだよ。果てしない数の可能性からたった一つが存在するっていう奇跡。)

 

この世で無事に生きてることも

 

そしてその場に偶然いることも、たまたまその人と出会ったことも、仲良くなったことも、

 

本当にすごいことだよ。

人生はたまたまと勘違い。

by 第二のお父さん

 

その出会いに、その偶然に、感謝。

そしてそのこと、その人に思いを馳せるのが誕生日なのかも.

「あなたに会えてよかった」「あなたのことを気にかけているよ」「あなたは生きてる価値があるんだよ、生きてるだけで十分なんだよ」って。

 

そして2、誕生日は親へのお祝いの日でもあるよね。

親は産むまでも、産んでからもものすごく大変な思いをして育ててきてくれたから今のその人がいるわけで。

親の立場になって考えたら、大変な思いをしながらも日々成長していく自分の娘息子の誕生日というのはどれほど嬉しいことなんだろう。

多くの場合お誕生日は当人しか祝われないけれど、本当にお祝いをするべきは親や支えてきた周りの人なのではないかと私は思う。

 

 

 

20歳の私が将来に向けて記念に残しておきたいもの ー 「ユニークさ」とは何か (20歳記念句集の記事として書いたものです)

生きてゆく

“自分”という存在は自分でも驚くほどに複雑で謎に満ちていて、とても強い関心に値する存在であり、永遠に尽きない最高の研究対象・材料である。それは、”自分”が人間だからである。そして、私が人間でありうる限り、私にとってユニークさは生きる上でのキーである。ユニークさは生かしも殺しもするし、一度でも味方につけたらあらゆる可能性が広がる。その意味で、ユニークさを考えることは私にとって自分を見つめることであるし、人間関係を考えることであるし、人生を考えることである。そして社会を、世界を考えることでもある。字数の関係で書けなかったことはたくさんあるし、今後ももっと発展していくだろうから、それを前提に読んでもらえたらと思う。

人間は常にいろんな情報や考え方や人に触れ、考え、成長発展が止まることがない、という点において、またその結果生まれるその人独自のものの見方、つまり考え方は一つとして同じものはなく、常に多様性に満ちている、という意味の二点において、ユニークさ、つまり個性を一人一人持っている。しかし、近年「没個性」「ユニークさを求める」と言われることにも現れているように、個性やユニークさの度合いというのは相対的にみて人それぞれその程度に差があり、例えば「変わっている」「面白い」「天然」などと言われるような人はその度合いが高いのだと思う。

では「ユニークさ」というのは誰にどのように判断されるのか?

それにはまず三段階に分ける必要があると思っている。一段階目はひとりひとりの内で生まれ育っている状態で、この段階ではまだ外に伝えようとはしない。二段階目はそれが他人との関わりの中で磨かれている状態で、まだうまくまとまっていない中でもなんとか伝え、他人からの反応や意見によって変わりうる状態。最後は、1ー2の行き来を繰り返したのちある程度自分の中でまとまりかたまり、それを外に向けて表現しようと努力している状態である。人によってまだ一段階にもいない人もいれば、非常によく考えていてそれをさらに上手に言葉にしたり、言葉でなくても人類共通のツール=音楽やファッションなどで表現したりしている人もいて、そのレヴェルというのは本当に様々である。ちなみに俳句や書などもその表現のツールの一つであると思っている。

評価というのは前提として常に他人の目にさらされているので、どれだけ面白いことを考え自分がユニークだと思っていてもそれを伝えなければ他者からの評価に耐えうることはできない。ただ、これだけたくさんの人がいる中でも誰一人として同じ環境経験を経た人はいないので(例えば同じ学校に通っていても家庭環境も違うし学校以外でしていることも違うし、それぞれの場所で出会う人も違う。経験の蓄積が人間を作っていくので誰一人同じ人はいない。)すべての人がユニークたりうるpotentialはあるのだが、それを生かすも殺すも自分次第で、それを育てるのが教育だと思う。

一言で言えば、by definition,

その人の世界や物事の見方がありきたりでない人=『ユニーク』な人

その人の世界や物事の見方を知りたいと思う人=『きになる』人

その人の世界や物事の見方を気に入り心地よく感じもっと知りたい、知り続けたいという状態にさせてくれる人=『好き』な人であると思っている。

また、人と接することは他人を知ることだけでなく自分を知ることでもある。人間というのは固定的に「その人」ではなく常に変化し続けるもので、且つ、状況=場、人によって出る面が違い(いい面を引き出してくれる人とそうでない相手がいるし、同じ人でもその時々のお互いの状態によって引き出しあえるものは違う)、また状況や人に引き出されることによって自分が知らなかった”新しい”自分を発見することができるということがあるためだ。「わからない」ということは「知りたい」と思わせる原動力である。コミュニケーションなども、会話が終わって別れるまで、どんな話や展開が起こるのかわからなくて、だからこそ楽しいのだ。人生も、人間関係も、小説も芸術も俳句と同じで、全部見えてしまっては面白くない。先が見えないからこそ、勝手に推測する余地がそこに与えられているからこそ楽しく、続けようと思うのだ。「ユニークさ」は、自分自身の中に何があるのか、どんなものが自分に入っていくのか、そしてそれがどう変化発展するのか、自分でもわからないし当然他人にもわからないから、もっともっと、という気持ちにさせてくれるし、知りたいと思わせてくれる。そして、だからこそ「ユニークさ」は存在することができる。このユニークさを自分自身のものはもちろん、相手のものもお互いに大切に大切にすることで平和は実現できる。平和は人間一人ひとりの心からでしか作れない。

まだ私は1−2の間の行き来を繰り返しているし、いつ次に進めるのかはわからない。人間の成長に完璧はありえないからだ。でも表現しない限り次に進むことはできないし、このエッセイはその初めての試みでもある。私は10年後どこで何をしているか全くわからない。この先の未来はいい意味でも悪い意味でもどんな可能性もあるから不安になることもある。でもだからこそすごく楽しいし、楽しみである。