Good Day to Die

JDでIvy LeagueのLaw Schoolを目指す、純ジャパICU生の日常の記録

ブログを書くと言うことについて

このブログ、とある人の助言によって生まれたんだけど、持ち前の「やるまでがめんどくさい」気質と「えっ勇気ない」と言うnegative overthinking、そして「書き上げるのめんどくさい」によってなんとなく存在はするけどほとんど更新されていないブログになってしまいました。あちゃ。

最近、Essay を4-5時間で2500wordsくらいは書けるようになって、書くことが楽しくななりました。でもやっぱり英語はnativeじゃないから、表現の幅も狭いし、文法も全然完璧じゃないし、日本語でのWritingに比べたらまだハードル高いです。時間かかるし。英語で2000に相当する日本語4000は二時間かからず書けるのに、英語でそれをやろうとすると2〜3倍はかかってしまう。悔しいなあ。

 

やっぱり思ってることは言葉にしなきゃ伝わらないから、しかもこの本質より見せ方が重視される世の中だからこそ余計に、自分の考えること思ったことを伝えることは大切。たまにでもいいから、ちょこちょこ書いてトレーニングになったらいいな。

 

授業中の質問と一緒で、質問の質を自分で決めると質問できなくなるから(私はoverthinkする傾向が強い)、とりあえずくだんないことでもいいから書く。更新する。毎日。

 

タイピングの練習にもなるねこれ

identity

To be honest, my Japanese identity is not something really matter to me.

Rather, I even think I was born in wrong country sometimes.

prob I don't have any specific community I'm devoting, because wherever I go and however long time I spend with, I've still felt strong connection between me and any specific communities.

Even tho I was contributing in many ways so much, my devoting feeling fade away once it's done and over. Like HLAB, JASC, Palestine NGO, Study groups etc....

But as long as I try to keep not fading those away, I can care people to some extent.

like my best friend, my boyfriend, my family.

 

However, my capacity for those is not really big, always limited so it's likely to go away being proportional with how busy I am. (plus I'm ADHD)

When I'm dead with assignments and reading like mid and final weeks, I can't reply anyone even tho it's my bday.

I know that's one thing destroying my relationships but still it's not something I can change easily.

It's almost my nature. (human nature as well tho)

 

So"less friends deep relationship" way fits more for me.

my friend should be supposed to understand how I am.

it may sound selfish but as Marylin Monroe said as

"I'm selfish, impatient, and a little insecure. I make mistakes, I'm out of control, and at times hard to handle. But if you can't handle me at my worst, then you sure as hell don't deserve me at my best."
Read more at: https://www.brainyquote.com/authors/marilyn_monroe

my few best friends and partner who deserve my best so far understand how I am and be patience, which I really appreciate.

But to be fair, I also really patience and considerable for those of them when they can't be the way they are and try my best to care those.

Relationship should be fair❤️

(ofc I understand there is certain situation and people who I have to reply no matter what, like work, academic life or like people I need to show my respect to them)

 

okay now I need to go back to my essay

see ya soon

 

 

 

 

戦い

私の目指しているところは、とんでもなく高い。

同じような目標を持つ人に比べると、私がいま持っているものは、圧倒的に不利だし、challengeが多い。

よく間違われるけれども、私は帰国子女でもないし留学経験もない。international school出身でもない。

でも自分が目指す世界へのアクセスは、そういった環境で育った人の方が圧倒的に高く、だからこそ羨ましい気持ち・憧れの気持ちがあってそういう風に自分を見せたかった部分はあるかもしれない。(Asian Americanとか言われるのは単純に日焼けをしているのと顔が多少濃いこと、そして振る舞いがもともと「日本人らしく」ないことももちろんあるだろうけど)

 

そういう世界といっても曖昧すぎるので、ここで三言くらい説明したい。(*印から*まで)

*

(ここ↓のConflictに関して書いていた文章が一気に消えた。まじショック、戻すボタンないんだ、ブログって)

私はConflictの問題にずっと興味があって、中高時代から政治理論や法という視点から「違いはどうしたらポジティブに乗り越えられるのだろうか?」というテーマに向き合ってきた。その中でも特に植民地問題とか、世界システム論および開発学のいくつかの理論などに強い問題意識を持ったので、mediatorという道からConflictへのアプローチを模索している。

 

正直どんなに偉い人が何人頑張っても、これからも変わることはない(why? because it's human nature)と断言できるような大きなテーマ(植民地問題とか、世界システム論および開発学のいくつかの理論など)をそれでも変えようと頑張るよりも、それはそれである程度所与ともした上でどうするかという発想である。

人間はそれぞれ違うから、そして人間以外の生き物・存在もこの世にはいるから、だけど同時に同じ世界にみんな存在しているから、それをどうみんなが納得できるようにバランスをとって行くか、これは私たちこの世界に生きるものの永遠の課題です。それぞれ違えばぶつかる。意見の違いもあるし、そもそもの価値観の違いもある。その違いがそのままでなくエスカレートした時に暴力は起きるし(暴力論はもっと奥深いが今は詳しくは書かない)、暴力がなくても人間の精神には影響を大きく及ぼす。この始まりからその影響と分析、現状存在する対策解決策等も全て含めて私はConflictというtermを使っている。(Conflictそのものへの興味は両親の離婚騒動における自分の役割がたまたま二重スパイのようなものだったために、考察実験の結果として生まれたものであります)

 

さて、その一連のプロセスをacademiaの視点からだけでなく、実務として(仕事として)も何ができるか?という私なりも模索が今のところのmediationという帰結になる(変わる可能性は大いにあります)のだが、これをどういう軸で見るかというと、やはり公的に「正しい正しくない」を決めるものでもあり、国家を国家足らしめるものでもある法の存在は大きいのではないかと思う。

そんなことを考える中、たまたまInternational Human Rights Lawのクラスをとり、その教授のPhilosphyに惚れ込み、さらに紹介された教授からColumbia Law主催のMediation Sammitにインターンとして参加させてもらえることになり、その道が少しずつ少しずつ開きかけているような状況である。

 

日本ではあまりConflictに関すること、およびそれへのアプローチへの研究なり活動なりは耳にすることはあまりない。法学院でも日本ではあまり集中的にやっているプログラムはないようだ。しかし、アメリカのLaw SchoolではそういったClinic(ゼミ)があり、集中的に二年間みっちりこなす(プログラムは学校にもよるが)。そこで私はアメリカのLaw Schoolを目指すことにした。

アメリカのLawに入るにはいい成績(GPA)、いい研究と人間性(recommendation)とLSAT(ロジックゲーム的な)が必須なのだが、ここで本題に戻る。

*

日本の教育はそういうために大切なことをtrainingはしてくれなかったから、私にとってのそういう学び・思考は高校二年で友達のTedxを見てからになる。ICUに入学してからも、英語やエッセイ、internationalな思考(謝る謝らないとか、どう自分を見せるみたいな価値観も含め)、アカデミックな考え方を叩き込んできても、大学からスタートした私にはまだまだだ。

それを小学校からやっているような人には正直敵わない。

最初日本人でHarvardにいる友達を見て、英語やその立ち位置で比べて、自分の存在が恥ずかしくなっていたけれど、そもそもスタート地点が違うことにBoyfriendに指摘されて気づいた。(ちなみにboyfriendはHarvard College-それはまた違うブログがあります)

私は日本人と比べたら本当にinternationalだし、アカデミアも英語もかなり流暢に話せると思う(発音も含め)けれど、世界で比べたら全然。

日本人とゴールが違うのに同じ土俵で比べてもしゃーないやん。

純粋に彼らより乗り越えなきゃいけない壁がどでかい。

そのことでルームメイトと喧嘩(?)して、またovethinking入ってしまったんだけど、

ただ、人間いろんなdimensionがあって、だからそれが人間としての価値になるわけじゃないんだし、まりだってルームメイトよりできることアカデミアでもたくさんあるんだよね。

 

もうごちゃごちゃ考えないで頑張ろ。

 

とりあえずキリがないのでテスト勉強します。(深夜二時半、明日テスト)

13th Nov 2017

conflict studies>peace studies

  1. Conflictへの興味関心>平和研究

平和のためのConflict Resolusionというよりは、Conflictそのものに興味があります。(両親の離婚調停の中で仲裁役のようなものを長くなっていたという経緯からというのはあるかもしれません)平和を作るのは、小さな一歩しかできないから、だったらいっそちょっと平和の視点は少し外して見ようと思いました。

ぶつかった時の背後にあるものだったり、またそれを踏まえた上でどう解決するかだったりというのを考えるのは難しくも本当にワクワクします。やはりビジネスにしろ国際社会にしろ利害重視になりがちですが、利害重視にしろそれ以外の(例えば人道的視点など)ものが重視されるにしても、お互いが納得する形で解決しなければまたConflictになるので、いかにその”点”を探すかが本当に大切だと思います。(寮の運営もたのしいです。笑)

国連・政府・NPOなどの、紛争や貧困といった大きなところはもちろん、ビジネスの中でのconflict(利益のぶつかりであったり、M&Aや海外進出による、環境や地元住民とのconflictなど様々)からもっと小さなところで言えば日常的な人間関係(特に結婚と離婚の問題)まで、関心があり、前者二つを仕事にして、最後は自分自身の生き方としてアプローチができるのかなと思っております。就職するのであればコンサルティングなどはどうかなと思っていますが、それはビジネスのコンフリクトという点からです。大きなconflictはアカデミクスと実務の行き来をしながら関われたらいいな、と思っています。

そういったことを考える中で、介入や開発、配分などJusticeの問題や、平等とは何かの議論などは欠かせない視点です。”生きた”法は、その”点”の最たるものであり、常にexperimentによっての法や保護を考えて行く必要があります。

経済は、いかにゼロサムでないものにできるか、という点で学んで生きたいと思っています。数学はあまりやってこなかったのでメジャーにはできないことと、数式の計算よりは経済哲学をやりたいなという感じです。そういったことから、法哲学・政治哲学・経済哲学などを学びながらケースとして、開発や紛争などを中東やアメリカやラテンアメリカなどから見ていきたいなあという感じです。

どうキャリアや学びを組み立てたらいいか悩んでいますが、それは目の前のことを頑張って入れば自然に付いてくるものだと思って、あまりそればかりにしがみつかないようにしています。

政治哲学と一般的に括られているものとしては、「正義ってなに?」「正しさってなに?」というGlobal Justiceの問題は、興味をもってきた一つのテーマです。この冬学期は、「What could be "harm" in the 21st century and What’s the limits of the power which can be legitimately exercised by society over the individual?」というテーマのエッセイを、Freedom of Speechの事例をケースとして、J.S.MillのOn Libertyを引用しながらから書きました。そこでも書きましたが、常に持っておかなければいけないのは、価値の多元性を認めることと、かつそれが何を産みうるかという視点だと思います。

私の平和研究(current)

人間って面白いよね。

人間は毎日変わっていくし、どの人といるかで出る面も違うから、その人がどういう人かっていうのはその人が死ぬまでわからないんじゃないかな?

 

最近多様性ブームだけど、資本主義の軸の中での"多様性"ではなくて、

相田みつを「みんな違ってみんないい」的なほんとうのいみでの多様性ってそういうところなんじゃないかなーと思います。

※あえて多様性とただ書くのではなく"多様性”とクオーテーションをつけた意味↓

easykaiwa.seesaa.net

多様性の話は近々また書きますね

 

私が平和研究とか格差とか紛争とか言いながら最終的に目指しているのは、

「それぞれがそれぞれのベストを尽くせること、そしてそれぞれが自分をそしてお互いを尊重しあえる社会を作ること」

なのかな、と。それが私にとっての平和なんじゃないかなあって思います。

そのために今存在する機会の不平等や格差(職・教育・情報、いろいろ)とか、

理不尽さに押しつぶされてる状況とか、

ベーシックニーズが足りてないとか、

そういう、みんなのベストを妨げてる要因を少しでもなくせたら良いよね。

それは小さい頃から変わらない私の人生の軸・coreの部分だし、勉強も就活も結婚も全部これに沿ってきて(行く)のだろうなあと思います。

 

基本的に、それらを達成するためには

  • 第一に命の保障
  • 第二に生活・ベーシックニーズの保障
  • 第三に生き方・心・権利の保障

という三つのステップがあるのかなと思っていて。

1が達成されていない地域では当然2も3もなくて。だって命危ない時にお金がどうとか心の豊かさどうとかってならないでしょ?

主に、

  • 比較的1はシリアやパレスチナ等に端を発する紛争地、また、一部ラテンアメリカやアフリカの極端に治安の悪い地域(麻薬やギャングがらみなど)

(学問アプローチ)

  ←紛争解決学

  ←マクロ経済等々

  • 2は貧困にあえぐ地域、1とほぼほぼかぶるけれど。これは数え切れないほどあるよね。国内でも国外でも格差は縮まるどころか広がるばかりだし、ほぼそれに比例して教育や政治や情報や諸々の格差も広がっている。特にアメリカ、日本の階層間格差はすごいし、南北問題・南南問題も深刻だよね。映画の「タイム」オススメです。

  ←マクロ・ミクロ経済学

  ←政治学

  ←正義とは何か〜とか

  ←国際関係学

  ←哲学

+もろもろ

  • 3は命も保障され、そこまで貧困にもあえいでおらず、しかし心の貧しさが近年指摘される先進国について主に言えるのではないかと思います。先学期は小説「モモ」を引用しつつ、これに関連するエッセイを書きました。「星の王子様」とかもこの類なんじゃないかなー。

  ←平和研究

  ←社会学

  ←人類学

 +もろもろ

みたいな感じかなー。って思ってて。

 

今までは、どういう方向で勉強するかっていう軸とかthesisみたいなものを、どちらかというと総合的な視点から固めていたんだけれど、マクロな視点のものはだいぶ明確になってきた(気がする)ので

今後は特に一つか二つのトピック(格差なら経済とか政治とか、戦争紛争関連なら政治学心理学国際関係学、とか)に絞って勉強なりインターンなりしていこうかなと思います。たのしみ。

 

大きな夢だけど、もし諦めてなんにもしなかったら、何にも変えられないから。少しずつ、何か変えられたらいいなあ。

 

mari

 

 

 

 

 

my fav Christmas song 🎄

 

これ2年くらい前のやつだけど。

Happy Christmas before 3 months! lol

Chiristmas is the most special day - no exception.

When I think of Christmas,my heart is always warm,kind,filled with love:))

So I wanna introduce some of my favorite christmas songs!

  • The first Noel


The First Noel - Glee Cast - Glee: The Christmas Album Volume 3


Glee - The First Noël (Lyrics) HD

 

  •  Have yourself a merry little christmas

www.youtube.com

 

Merry Little Christmas

Merry Little Christmas

 

 

 Last Christmas


Wham! - Last Christmas (Official Video)

Santa Tell Me


Ariana Grande - Santa Tell Me (2014)

Note:How to change myself shining from inside and outside

How to change yourself shining from inside and outside

-How I accepted myself and came to be able to love myself-

 

1,Do what to do perfectly.

You often feel lazy to do ,

And sometimes feel nothing to do.

But try not to escape from the thing.

If you don't,the moment you feel emptiness will decrease I swear.

To finish something can make you feel good so much and can be 爽やかな世界の住人.

And that's first step to love yourself.

But *notice:never never blame yourself even when it's not done properly,okay?

The thing you should blame on is the thing, not yourself.

 

2,Enjoy the moment! / Not thinking too much

For example,「今日はあったかくて気持ちいいなあ」

「わ、この穴可愛いワニさんみたい」

Treasure your 素直な心。

 

3,Be filled with lots of appreciation!

 

 

 

"私は自分のことがものすごく好き。"

 

I love this*)) from my friend.

↓↓

私は、自分のことがものすごく好き。

私の人生自体は、世界中のものごとと比べたら、そりゃあ端っこ・隅っこにあるちっぽけなものにすぎないかもしれないけれど、少なくとも、私の人生の中心に存在する。

「普遍的な美」をもっているわけではないが、私が持つ個性が気に入ってるうえ、それが自分の魅力であると思う。

背は大して大きくないが、小さいからといって外見に合わせて可愛くなろうとは思わない。

自分に自信があるからこそ、どんな人であれ初めて会った人とも話を弾ませることができる。

武器を持って歯向かってくる相手でなければ、誰であろうと怖くない。

SNS上の知り合いが何百人ほどではないが、自分とつながりを持ち、絆を深められるような人に対して、真摯に、大切に向き合う。

だからこそ、お別れの時間がやって来た際、執着せず、そっと放して、相手の幸せを願うことができる。

何かが思うようにいかなかった時、それが私の人生の終わりでないと知っているが故、親切でない店員さんに、信号を守らない車に、バス停前の列を並ばず抜いてくる人に、図書館で騒ぐ新入生に、無礼な態度の友人に、怒りを感じずにすむ。

こうしたときは、幸せな瞬間、最高の状況ではないが、笑い飛ばせる余裕を学びつつある。

私の成績・GPAはくそみたいで、専攻・メジャーもたしかではないけれど、少なくともそれらが自分の人生において一番大切なものではないことをよく知っている。

私が何をしたいのか、何を得意とするのか、よく理解しているわけでもない。

けれど、現在(いま)の自分が一瞬一瞬最善を尽くして、行動をおこしていれば、いつか未来にふと立ち止まって振り返るこの道が、私の歩んできた道(人生)になっていることを、私は確信する。

数多くの試練を経験し、これからもいくつもの悩みを抱えることであることも知っている。

誰かが道標(みちしるべ)をしていない道、ヒントのない道は、なおさらそうであろう。

しかし、失敗に見えるものとは、実際失敗ではないことを思い出してみよう。また成功に見えるものも、本当の成功ではないことを覚えておこう。

ただ、私が知らざるを得ない、この世界のすべての因果関係が互いに作用した結果であり、その何か別の結果の原因であることなのだろう。

私にできる最善のことは、ただいま私を訪れている現在を大切に想うことであること。こうして学んでいっている。そんな私が、私の人生が、とても愛おしい。

 

誕生日の意義

毎年誕生日が来るたび憂鬱になる。

祝われないことが怖いのだ。

社交的な友達の多い子はたくさんのサプライズやメッセージやプレゼント、SNSでのコメントなど。

思うに誕生日という日は、普段どれだけ周りにコミットしてきたか(他人に感謝されたり大切に思われるようなことをしてきたか)というのが一番はっきりと表れる日なのだと思う。

だから祝ってもらえて嬉しい、プレゼントわーい、ではなくて、私にとっては気の引き締まる思いでもあるし、緊張する日でもある。

 

じゃあ誕生日ってなんのためにある日なのか?なぜ誕生日を祝うのか?

  1. 誕生日ということをきっかけにしてその人の人生や思いや未来に思いを馳せることでその人が存在していていいんだよということを表す日。
  2. その人自身が、親に、友達に、周りの環境に感謝する機会である日。

なのかなーって思うのね。他にもあるよーっていうのがあったら教えて欲しいです。

 

まず1について。

私が言いたいのは多分こういうことだろうなっていう一つのストーリーを見つけたので紹介したいと思います。

ベンジャミン・ザンダーというボストンフィルハーモニック管弦楽団の常任指揮者の講演を聴く機会に恵まれました。
場所はカナダのケベックコーチングの国際大会の基調講演者がザンダーでした。 ザンダーはイギリス生まれのユダヤ人で、指揮をするかたわら音楽学校も経営していて、リーダーシップに関する講演を世界各所で行っています。各国の政財界の首脳が集う
世界ダボス会議のような場に招かれて講演したこともあるということでした。
講演のまだ序盤、彼は2000人のオーディエンスに対して、「今日、誕生日の人はいませんか?」と問いかけました。
1人の女性が手を挙げると、ザンダーは彼女をステージに上がるよう手招きしました。
「皆さん、今日は彼女の誕生日です。ハッピーバースデーを歌おうではありませんか。幸い私は指揮者ですから、指揮をしましょう。立ち上がってください。さあ!」
アメリカ人がほとんどの会場ですから、みんな照れもなく歌いだしました。
ハッピーバースデーが会場に響き渡りました。すると、突然ザンダーは手を大きく振って、歌を止めました。
「皆さん、歌ってくれてありがとう。でも今のはただのお付き合いに過ぎませんね。とても心が込もっていたとは思えない。心を込めてもう一度!」オーディエンスはお腹の底から大きな声を出して歌い上げました。まさに大合唱です。しかし、またもザンダーは途中でストップをかけました。
「すごくいい! とてもエネルギーのある大きな声だ。でも大きな声で歌えばいいというものでもない。みなさん、忘れていませんか? 今日は正真正銘 彼女のバースデーです。彼女がこの世に生を受けたことをお祝いする日です」
「ちょっと想像してみませんか?彼女が生まれた日、彼女のご両親はどんな顔で生まれたばかりの彼女の顔を覗き込んだのかを。
子供のときはどんな遊びが好きで、どんなお友達がいて、どんな夢を抱いていたのかを。学生時代はどんな恋をし、どんなことに悩み、どんなことに一生懸命になっていたのかを。そして最近では、どんな仕事をしていて、どんな家族に囲まれていて、どんな将来を展望しているのかを。その彼女の、正真正銘の誕生日です。心を込めて、彼女という人間がここにいることの奇跡を歌を通してお祝いしましょう。さあ!」 オーディエンスの歌声は、ゆったりとした、気持ちの込められた音色に変わりました。会場の真ん中で、私の体は感動で少し震えました。
驚いたのは、ステージでその歌を聞いていた彼女の頬に涙がつたったことです。この経験は自分にとって衝撃的でした。その人の誕生日をお祝いするということは、その人が確かにそこに「存在している」ということを改めて思い出す行為なのだということが、
はっきり認識できました。そして、誕生日はその人の背後にある物語に思いを馳せる時間なのだと、仕事を通して出会えた喜びに感謝する時間なのだと気づきました。

出会いの確率は途方ないものこの世の中で、ある1人の人と、ある1人の人が出会う確率とは
どのくらいなのでしょう。「出会い」というものをどう捉えるかにもよるため、
本などではいろいろな数字が出ているようですが、純粋な数学的計算では、200億分の1にさらに
100億分の1を掛けるくらいの、途方もない率になるといいます。そのくらい、出会うということは
奇跡的なことなのでしょう。 1人の人との巡り逢いは、天文学的な率のもとで起きているといえるかもしれません。
引用;

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1339936053

 

コンプレックスの話*でもしたんだけど、生きてるって当たり前じゃなくて。

その人がこの世に存在してることも(だってものすごい数の男女がいてものすごい組み合わせがあるのにその中で二人が出会うのもそれが結婚までいくのもすごいこと。しかも同じ親でもものすごい遺伝子の組み合わせと可能性があるんだよ。果てしない数の可能性からたった一つが存在するっていう奇跡。)

 

この世で無事に生きてることも

 

そしてその場に偶然いることも、たまたまその人と出会ったことも、仲良くなったことも、

 

本当にすごいことだよ。

人生はたまたまと勘違い。

by 第二のお父さん

 

その出会いに、その偶然に、感謝。

そしてそのこと、その人に思いを馳せるのが誕生日なのかも.

「あなたに会えてよかった」「あなたのことを気にかけているよ」「あなたは生きてる価値があるんだよ、生きてるだけで十分なんだよ」って。

 

そして2、誕生日は親へのお祝いの日でもあるよね。

親は産むまでも、産んでからもものすごく大変な思いをして育ててきてくれたから今のその人がいるわけで。

親の立場になって考えたら、大変な思いをしながらも日々成長していく自分の娘息子の誕生日というのはどれほど嬉しいことなんだろう。

多くの場合お誕生日は当人しか祝われないけれど、本当にお祝いをするべきは親や支えてきた周りの人なのではないかと私は思う。

 

 

 

20歳の私が将来に向けて記念に残しておきたいもの ー 「ユニークさ」とは何か (20歳記念句集の記事として書いたものです)

“自分”という存在は自分でも驚くほどに複雑で謎に満ちていて、とても強い関心に値する存在であり、永遠に尽きない最高の研究対象・材料である。それは、”自分”が人間だからである。そして、私が人間でありうる限り、私にとってユニークさは生きる上でのキーである。ユニークさは生かしも殺しもするし、一度でも味方につけたらあらゆる可能性が広がる。その意味で、ユニークさを考えることは私にとって自分を見つめることであるし、人間関係を考えることであるし、人生を考えることである。そして社会を、世界を考えることでもある。字数の関係で書けなかったことはたくさんあるし、今後ももっと発展していくだろうから、それを前提に読んでもらえたらと思う。

人間は常にいろんな情報や考え方や人に触れ、考え、成長発展が止まることがない、という点において、またその結果生まれるその人独自のものの見方、つまり考え方は一つとして同じものはなく、常に多様性に満ちている、という意味の二点において、ユニークさ、つまり個性を一人一人持っている。しかし、近年「没個性」「ユニークさを求める」と言われることにも現れているように、個性やユニークさの度合いというのは相対的にみて人それぞれその程度に差があり、例えば「変わっている」「面白い」「天然」などと言われるような人はその度合いが高いのだと思う。

では「ユニークさ」というのは誰にどのように判断されるのか?

それにはまず三段階に分ける必要があると思っている。一段階目はひとりひとりの内で生まれ育っている状態で、この段階ではまだ外に伝えようとはしない。二段階目はそれが他人との関わりの中で磨かれている状態で、まだうまくまとまっていない中でもなんとか伝え、他人からの反応や意見によって変わりうる状態。最後は、1ー2の行き来を繰り返したのちある程度自分の中でまとまりかたまり、それを外に向けて表現しようと努力している状態である。人によってまだ一段階にもいない人もいれば、非常によく考えていてそれをさらに上手に言葉にしたり、言葉でなくても人類共通のツール=音楽やファッションなどで表現したりしている人もいて、そのレヴェルというのは本当に様々である。ちなみに俳句や書などもその表現のツールの一つであると思っている。

評価というのは前提として常に他人の目にさらされているので、どれだけ面白いことを考え自分がユニークだと思っていてもそれを伝えなければ他者からの評価に耐えうることはできない。ただ、これだけたくさんの人がいる中でも誰一人として同じ環境経験を経た人はいないので(例えば同じ学校に通っていても家庭環境も違うし学校以外でしていることも違うし、それぞれの場所で出会う人も違う。経験の蓄積が人間を作っていくので誰一人同じ人はいない。)すべての人がユニークたりうるpotentialはあるのだが、それを生かすも殺すも自分次第で、それを育てるのが教育だと思う。

一言で言えば、by definition,

その人の世界や物事の見方がありきたりでない人=『ユニーク』な人

その人の世界や物事の見方を知りたいと思う人=『きになる』人

その人の世界や物事の見方を気に入り心地よく感じもっと知りたい、知り続けたいという状態にさせてくれる人=『好き』な人であると思っている。

また、人と接することは他人を知ることだけでなく自分を知ることでもある。人間というのは固定的に「その人」ではなく常に変化し続けるもので、且つ、状況=場、人によって出る面が違い(いい面を引き出してくれる人とそうでない相手がいるし、同じ人でもその時々のお互いの状態によって引き出しあえるものは違う)、また状況や人に引き出されることによって自分が知らなかった”新しい”自分を発見することができるということがあるためだ。「わからない」ということは「知りたい」と思わせる原動力である。コミュニケーションなども、会話が終わって別れるまで、どんな話や展開が起こるのかわからなくて、だからこそ楽しいのだ。人生も、人間関係も、小説も芸術も俳句と同じで、全部見えてしまっては面白くない。先が見えないからこそ、勝手に推測する余地がそこに与えられているからこそ楽しく、続けようと思うのだ。「ユニークさ」は、自分自身の中に何があるのか、どんなものが自分に入っていくのか、そしてそれがどう変化発展するのか、自分でもわからないし当然他人にもわからないから、もっともっと、という気持ちにさせてくれるし、知りたいと思わせてくれる。そして、だからこそ「ユニークさ」は存在することができる。このユニークさを自分自身のものはもちろん、相手のものもお互いに大切に大切にすることで平和は実現できる。平和は人間一人ひとりの心からでしか作れない。

まだ私は1−2の間の行き来を繰り返しているし、いつ次に進めるのかはわからない。人間の成長に完璧はありえないからだ。でも表現しない限り次に進むことはできないし、このエッセイはその初めての試みでもある。私は10年後どこで何をしているか全くわからない。この先の未来はいい意味でも悪い意味でもどんな可能性もあるから不安になることもある。でもだからこそすごく楽しいし、楽しみである。