Good Day to Die

JDでIvy LeagueのLaw Schoolを目指す、純ジャパICU生の日常の記録

20歳の私が将来に向けて記念に残しておきたいもの ー 「ユニークさ」とは何か (20歳記念句集の記事として書いたものです)

“自分”という存在は自分でも驚くほどに複雑で謎に満ちていて、とても強い関心に値する存在であり、永遠に尽きない最高の研究対象・材料である。それは、”自分”が人間だからである。そして、私が人間でありうる限り、私にとってユニークさは生きる上でのキーである。ユニークさは生かしも殺しもするし、一度でも味方につけたらあらゆる可能性が広がる。その意味で、ユニークさを考えることは私にとって自分を見つめることであるし、人間関係を考えることであるし、人生を考えることである。そして社会を、世界を考えることでもある。字数の関係で書けなかったことはたくさんあるし、今後ももっと発展していくだろうから、それを前提に読んでもらえたらと思う。

人間は常にいろんな情報や考え方や人に触れ、考え、成長発展が止まることがない、という点において、またその結果生まれるその人独自のものの見方、つまり考え方は一つとして同じものはなく、常に多様性に満ちている、という意味の二点において、ユニークさ、つまり個性を一人一人持っている。しかし、近年「没個性」「ユニークさを求める」と言われることにも現れているように、個性やユニークさの度合いというのは相対的にみて人それぞれその程度に差があり、例えば「変わっている」「面白い」「天然」などと言われるような人はその度合いが高いのだと思う。

では「ユニークさ」というのは誰にどのように判断されるのか?

それにはまず三段階に分ける必要があると思っている。一段階目はひとりひとりの内で生まれ育っている状態で、この段階ではまだ外に伝えようとはしない。二段階目はそれが他人との関わりの中で磨かれている状態で、まだうまくまとまっていない中でもなんとか伝え、他人からの反応や意見によって変わりうる状態。最後は、1ー2の行き来を繰り返したのちある程度自分の中でまとまりかたまり、それを外に向けて表現しようと努力している状態である。人によってまだ一段階にもいない人もいれば、非常によく考えていてそれをさらに上手に言葉にしたり、言葉でなくても人類共通のツール=音楽やファッションなどで表現したりしている人もいて、そのレヴェルというのは本当に様々である。ちなみに俳句や書などもその表現のツールの一つであると思っている。

評価というのは前提として常に他人の目にさらされているので、どれだけ面白いことを考え自分がユニークだと思っていてもそれを伝えなければ他者からの評価に耐えうることはできない。ただ、これだけたくさんの人がいる中でも誰一人として同じ環境経験を経た人はいないので(例えば同じ学校に通っていても家庭環境も違うし学校以外でしていることも違うし、それぞれの場所で出会う人も違う。経験の蓄積が人間を作っていくので誰一人同じ人はいない。)すべての人がユニークたりうるpotentialはあるのだが、それを生かすも殺すも自分次第で、それを育てるのが教育だと思う。

一言で言えば、by definition,

その人の世界や物事の見方がありきたりでない人=『ユニーク』な人

その人の世界や物事の見方を知りたいと思う人=『きになる』人

その人の世界や物事の見方を気に入り心地よく感じもっと知りたい、知り続けたいという状態にさせてくれる人=『好き』な人であると思っている。

また、人と接することは他人を知ることだけでなく自分を知ることでもある。人間というのは固定的に「その人」ではなく常に変化し続けるもので、且つ、状況=場、人によって出る面が違い(いい面を引き出してくれる人とそうでない相手がいるし、同じ人でもその時々のお互いの状態によって引き出しあえるものは違う)、また状況や人に引き出されることによって自分が知らなかった”新しい”自分を発見することができるということがあるためだ。「わからない」ということは「知りたい」と思わせる原動力である。コミュニケーションなども、会話が終わって別れるまで、どんな話や展開が起こるのかわからなくて、だからこそ楽しいのだ。人生も、人間関係も、小説も芸術も俳句と同じで、全部見えてしまっては面白くない。先が見えないからこそ、勝手に推測する余地がそこに与えられているからこそ楽しく、続けようと思うのだ。「ユニークさ」は、自分自身の中に何があるのか、どんなものが自分に入っていくのか、そしてそれがどう変化発展するのか、自分でもわからないし当然他人にもわからないから、もっともっと、という気持ちにさせてくれるし、知りたいと思わせてくれる。そして、だからこそ「ユニークさ」は存在することができる。このユニークさを自分自身のものはもちろん、相手のものもお互いに大切に大切にすることで平和は実現できる。平和は人間一人ひとりの心からでしか作れない。

まだ私は1−2の間の行き来を繰り返しているし、いつ次に進めるのかはわからない。人間の成長に完璧はありえないからだ。でも表現しない限り次に進むことはできないし、このエッセイはその初めての試みでもある。私は10年後どこで何をしているか全くわからない。この先の未来はいい意味でも悪い意味でもどんな可能性もあるから不安になることもある。でもだからこそすごく楽しいし、楽しみである。