Good Day to Die

JDでIvy LeagueのLaw Schoolを目指す、純ジャパICU生の日常の記録

JASC-日米学生会議に参加して- 報告書より抜粋

1.規範的視点から見た私のjasc

なぜJASCに参加したのか。JASCのことはもともと知っていたけれど、まさか自分がJASCerになるとは一年前には想像もつかなかった。1月か2月頃、突然JASCに参加するのも面白いんじゃないかと思い、締め切りの3時間前にアプリケーションについて調べてそのまま締め切り一分前に書き終え提出。不思議な縁で一次に合格させてもらい、オンライン選考で受けさせてもらって。二次は自分の中では失敗で、もう諦めて夏の予定を入れ始めたところでまさかの合格をいただいた。他のインターンやプログラムも重なっていたので散々参加するか悩んでECにもたくさん迷惑をかけて。こんな状況だったのに合格したのは、不思議なご縁があったんだな、と後からしみじみ感じた。

JASCには、人間を知りたいと思って参加を決めた。私は人間が面白いと思うし、良い方向にも悪い方向にも、いかなる可能性も秘めた生物だと思っている。今の世界は本来本質的にどうあるかよりもどう見えるかの方が重視されがちだが、こういう時代だからこそ、本質を見失いたくない。普段の生活の中ではどうしても日常に終われてなかなか一人一人との時間を取ることができない。相手をよく知らないままバイアスや勝手なイメージを作り、いい関係性を作ることが難しくなりがちだ。人間は皆違う。人間だけでない。この世界には無数の違いが存在する。むしろ同じものなんてないかもしれない。動物も植物も人間もこの世にあるもの全てがそれぞれ意味を持って生まれてきているはず。違いもそれぞれ意味があって、大切にするべきだと思う。私にとっての理想の世界というのはそれぞれがそれぞれ信じるものを大切にして自分の可能性を最大化させることと、個々人がお互いの存在の中で違いをポジティブに乗り越えることが両立されている世界だ。特に違いをどう乗り越えるのかということや関係性の平等ということに関して強い関心を持って様々な課外活動やcourseworkにも取り組んできていた。だからこそ、違いをどう乗り越えるのかという大きなテーマがキーになるマイノリティとマジョリティというRTを希望していた。実際にJASCに参加してどうだったのか。JASCは私に何をくれたのか。私はJASCに何をどう貢献できたのか。また、JASCが自分に気づかせてくれたものは何か。正直今でもはっきりとはわからない。一生わからないかもしれない。しかしなんとなく実感として書けることはある。それは自分が今までやってきたことの確信でもあり、疑問でもある。

 

2.違いを乗り越えるには 

人間は違いをどうしたらポジティブに乗り越えられるのか。JASCという場は、まさにマイノリティRTや自分のacademicsの中のテーマの実証的考察の場であった。これはひとえに三週間強制的に決められたプログラムの中で一緒に生活をするというJASCの特殊な環境によると思う。違いはJASCでなくても多く存在するが、朝から夕方までプログラムが組まれていて同じメンバーで過ごす三週間というのはそうあるものではない。JASCで確信したのは、いくつかの条件が揃っているときに人間は違いをポジティブに乗り越えられるということ、そして乗り越え方にはいくつか欠かせない重要なことがあること。三週間も「逃げられない空間で」一緒に生活するんだから、それはconflictは起こるに決まっている。conflictまでは行かないにしても自分自身に対してフラストレーションを感じたこともあれば、友人間のconflictの間に入ったことで気づいたこともある。それは人間関係が存在する環境だからこそ気づけたことだと言って良いだろう。

では、人が違いをポジティブに乗り越えらえるのはどんな時なのであろうか。どういうことがそのためには大切なのだろうか。何をjascを通して実感したのだろうか。

まずは自分が精神的に余裕を持っているとことの重要性についてだ。これは日本の故事も「衣食足りて礼節を知る」と指摘しているほどだから、古代から人間の性質としてずっと言われてきたことなのだろう。自分の余裕がないと、人に対して優しい視点を持つことができない。ちょっとしたことで人のことを責めたくなるし、違いにもイライラする。相手も余裕がなかったらもう悲惨な結果しかない。冷静に・客観的に見ることができないから、疲労やさみしさと言った元々は別の感情だったものが怒りという二次感情という形であらわれることとなる。余裕というのは疲労や悲しい出来事の影響もあれば、そもそもself-disqualificationという簡単には克服し得ない問題も内在している。自分で自分を愛し、自分で自分をコントロールすることでしか愛のタンクは満たせない。愛のタンクがカラカラだったら、優しい視点なんて生まれない。愛のタンクは他人から承認されて満たすものではない。

朝から夕方までみっちり組まれたプログラムを慣れない相手と一緒に時間を過ごすのだから、疲れもたまるし悩むこともある。余裕はなくなる。感情のコントロールが難しくなるときもあるし、冷静に思考できなくなる。相手の話も聞けなくなる。まずは精神的な余裕を持つこと。これは相互理解=違いをポジティブに乗り越えるための必須条件であると言えるだろう。しかし実際どうであったかと言えば、正直なかなか厳しい時も多かった。自分自身もできない時もたくさんあったし、だからこそああいう形のコンフリクトが起きるに至ったのであろう。あの渦中は大変だったけれども、起きること全てに意味があるし、今振り返ればいい思い出だったなと思う。

お互いが余裕を持った上でお互いがお互いにactive listeningをすること。これが次のステップだと思う。それにより自分と相手の間で認識の違いがあることを認識しその違いを尊重することが今の所違いをポジティヴに乗り越える唯一の方法であるように思う。これはどれだけ相手を「自分と同じもの」として、どの程度相手を自分と切り離した「他人」としてみることができるのかという問題に繋がる。愛と無関心の問題とも言い換えられるだろう。相手を「自分と同じもの」とすると、相手も同じように思うはず・こうするのが正しいはず、という正しさの前提の共有を押し付けがちであるが、相手も「他人」とするとその正しさの前提から崩れるから、お互いの言動に対してそれぞれがどう実際に思ってそうしたのか・それをお互いがどう認識・解釈しているのかという細かいところから確認しなければならなくなる。外国人に対しては違うものと初めから受容することが多いけれども、日本人同士だと「わかってくれて当然」ともなりがちだし、特にそれが家族や恋人、親友など近い存在になればなるほど自分の価値観を押し付けてしまいがちだ。JASC中に起きたいくつかのコンフリクトはこれが直接の原因で起きたわけではないけれども、それが関わっていることも確かだと思う。これらのことは日頃academiaの中で学び追求していることのいくつかだが、それを実践的に考えるいい機会であったし、RTの議論も自然にそういう方向に行った。みんな同じこと考えているんだと嬉しくなったし、こういうことはこの世界に違いが有る限り人種も国籍も宗教もジェンダーも関係なく、普遍的なものなのだとある種の確信を得た。

 

3.プライドとアイデンティティクライシス

今までの考察は基本的に他人を見ることでみてきたものであるが、自分自身が苦しんだことからも気づきはたくさんある。その一つは「プライドとアイデンティティ」であると思う。理解してくれる人とそうでない人とはっきり分かれるけれども、自分は日本人ではないように感じることが日常多々あり、JASC中にも、アメリカ人に対するカルチャーショックよりも日本人に対するカルチャーショックの方が大きかったという方が正直なところだし、日本人にもアメリカ人にもなりきれない宙ぶらりんな感じが私を混乱させた。自分には中途半端なプライドがあった。自分は日米というカテゴリーに収められなかったし、どうしても客観的な説明がつかなかった。日本語のできるアメデリが良かれと訳してくれるのも自分にとっては苛立ちの種だった。だからと言ってネイティヴと同じに話せるわけでもなく、悔しくて仕方なかった。確かに日本人と比べたらできるかもしれない。でも日本にいる気がないのに日本人じゃないのに日本のcontextで考えてどうする。そう自分を追い詰めていたんだと思う。

また、自分が何が得意なのかもよくわからなくなった。人間というものは置かれた環境やそのcontextによって変化するものであり決して一定ではないと思っているが、JASC全体の中の自分とRTの中の自分、1対1で人と向き合う自分と、ICUの中での自分とそれぞれ違い、本当に自分がまさにそれであった。特に集団の中の自分には深く考えさせられ、泣かされ、悔しい思いをさせられた。私は多分集団の中の自分というものが好きではないのだ。自分の能動性や精神的なゆとり、明るく「自分らしく」い続けることの大変さをひしひしと感じている。今までも多く課外活動をしてきていろんな集団に所属してきたけれども、それらはあくまで「仕事」としてやってきた。JASCのECのように、作ってきた側だった。「参加者としてベストを尽くす」ということがいかに難しいか。仕事の中での自分だけでは見えなかった自分を改めて見ることができた。私は逃げがちだ。一人の時間が欲しいし、ずっと明るくなんていられない。誰とでも私の大事なことを共有することはできないし、自分の枠を作ってみんな「他人」にしてしまう。プライドばっかり高くて、偉そうな理想論ばっかり。自分に対する”disqualification”の問題にも数え切れないほど直面した。辛かった。でも一番辛かったのはわかってるのに変なところ意地はって、プライド張ってるせいでできない自分。英語がちょっと周りよりできるという中途半端なプライドのせいでわからなくてもわからないの一言が言えなくて、素直に意味を聞いている日本人を見ている自分や、優しくされたのに変な意地はっているせいで優しさで返せない自分。バイアスをどうしても抜けなくて避け続けてしまったあるメンバーへの自分の態度。期限をどうしても守れず周りからの信頼や期待も裏切り、自己嫌悪をも加速している怠惰な自分。

こういう気づきはきっと今までもあったけれど無視してきたんだろう。そしてこれからもいろんなところに付きまとって来るのだろう。自分なんか嫌いだ、私なんて何もできないと思うことは簡単だけれど、そう思ってなんの意味がある?これから死ぬまで60年以上も自分と付き合わなければならないのに。だったら自分を好きになれるように努力するしかないじゃないか。ありのままの自分を自分として受け入れて、そのままを愛して、愛のタンクを自分でいっぱいにして。愛のタンクからたくさんみんなにおすそ分けして、もっともっと増やして。タスク面でも感情面でも一瞬一瞬を生きることがどれほど難しいかは十分わかった上で、だからこそ向き合わなければならないんだ。逃げるな、自分。頑張れ、自分。



4.最後に

JASCがlife-changingだったかと聞かれても正直わからない。一生わからないかもしれない。自分は参加者としてのベストは尽くせなかったかもしれない。もっとよくできた、もっと逃げずにいたらもっとたくさんのものが見れただろう。しかし、2016年夏の、あの自分にできたベストはあれが全てだったのだ。大切なのはその気づきをどう活かすか。そして、自分が見たかったものは見ることが出来たかと聞かれたら胸を張ってYESだ。これが私にとってのJASCだった。



最後に、関係者の皆様に心よりの感謝を。